観察日記 2012-03-22
教養ちゃんねる %ruby です。三種の神器とは鉄器のことではないか、という話。
「日本」はいつできたか
「日本」という国が本当は何者で、いつできたのかには色々と謎が多くて、この国が「日本」を名乗り始めたのは天智天武の頃だと各国歴史書が示しているんですが…。なお、旧唐書に改名の経緯が出ていることは前提としています。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_03_10.htm 670年には日本を名乗っていたのか
{znz_v} title bot: 百済人将軍「袮軍」の墓誌に記された日本という国名
すると、不改常典同様天智天皇が定めたのかなぁ
ほう<国号問題
こうなると、近江令で国号を定めたという(比較的賛同者の少ない)説が有力になるのかな。
「天皇」の起源
三皇五帝は前提としております。
実は「天皇」の呼称の最初も天智だったりしてね
その可能性は高いんじゃないですかねえ。
...
いや、674年か、唐の君主号が天皇になったのは。
それより先ってのは考えにくいかねえ。
なるほど
ん?
武則天 - Wikipedia
{unak} 武則天は改名を非常に好み、660年(顕慶4年)には皇帝と皇后をそれぞれ「天皇」と「天后」に改名している。
これはバグだと思うのだが、なんか論拠あるのかな。
上元 (唐高宗) - Wikipedia
{unak} 元年:高宗・武則天が称号をそれぞれ皇帝から天皇、皇后から天后とした。
ムジュンしている!
そういえば武則天もなんかいろいろやってたな
やりたい放題ですあの人は。
4文字年号も彼女の発明。
なので、日本でも女帝の時代に流行っている。
とすると、天智時代の可能性もありそうだ
いやあ
660年は明らかに間違いだと思う。出典が出てこない限り。
で、(1)ほぼ同時代に唐と日本でそれぞれ同じ表記の君主号が偶然に成立した (2)日本で成立した天皇号を唐でも同じ表記で採用した の2つの仮説は共に信じがたい。
天智と天武
http://mdenka.blog85.fc2.com/blog-entry-1187.html ほぅ?
{znz_v} title bot: 「天皇」号と武則天〜或いは何故唐から先は「ナントカ帝」と表記しないのか - 殿下執務室2.0 β1
http://kodaishi-21.web.infoseek.co.jp/gimon-t-5.html
{znz_v} title bot: 天皇 5
そうだよな、なんで天智と天武には「天」がついてるのか不思議だった
それは
えーと
森鴎外だったかが
解説している。
ほう
意外な名前がでてびっくりでしょ?
うむ
実は、森鴎外は『帝謚考』という論文を書いてましてね
「天智」とは殷の紂王が身に着けていた玉。
ふむ、読んだ
あ、じゃあ以下略で。
ま、そういうことなのです。
しかし二人だけ天で始まる理由にはなってないな
森鴎外の説明では、「天」についてはたまたまですね。
ところで彼らの諡号をつけたのは淡海三船ですが
ちょうどそこにつっこもうとしていた
淡海三船は天智側だよね
弘文天皇(=天武に殺された大友皇子)の曾孫
彼は天武朝で生き残るためにそういうおべっかが必要だったんじゃないですかね。
時の情勢も天武側から天智側に振れ直した時期じゃなかったっけ?
どうなんだろう
天武朝終了後だったと思う
なので余計によくわからない
聖武天皇期だと思うんだが。
なぜかというと、聖武天皇の前の元正天皇までの諡号をつけているから。
天皇系図38-50代
記憶通りである
ちうか実質天武朝2代だな
一般に、天武朝の終わりは光仁天皇の即位ですね。
ただ、言われるほど天智系と天武系という対立があったわけではないという説もある。
あり
あぁ、まだ天武の男系か
はい。
持統天皇は天智の娘なので、どちらかというと持統が自分の血統に拘っただけという...
淡路廃帝こと淳仁天皇はご覧の通り持統の血統ではないのだが、故に一度は即位したもののちょっと情勢が傾いただけで廃位されている。
結局そこと天智本流が合流するまで続くと
結果的には持統が仲裁した感じになるのか、うまくたちまわったのか
いやあ
持統天皇は天武系とか天智系とか関係なく、自分の血統以外を敵とみなしていたんじゃないでしょうかねえ。
まぁ、理解できなくもない
例えば、葛野王という人がいます。
どういう人かといいますと
弘文天皇こと大友皇子の第一皇子。淡海三船の祖父です。
つまり、壬申の乱がなければ天皇家嫡流ですね。
しかし、壬申の乱があったので皇子と呼ばれず王と呼ばれる傍流皇族としての地位に甘んじることになります。
弓削皇子は殺されずに済んで良かったねという話か
さて、天武天皇の第一皇子である高市皇子は、壬申の乱時に唯一の成人(当時の)の天武の子として天武軍を率いて勝利しました。
っとおもったらしんでた
つまり、高市皇子は第一皇子であると同時に壬申の乱の最大功績者であり、ゆえに即位は確実だったのです。
ところが、彼の母は持統天皇ではありませんでした。
本来は天武崩御後に即位できたはずなのに、持統が待ったをかけて自分が即位してしまったわけです。
高市皇子自身は持統の元で太政大臣として遇されました。
この太政大臣というのは人臣最高位...ではなくて、天智天皇時代に大友皇子が就いていた職であり、つまり皇太子・共同統治者相当です。
つまり、持統は自分が即位したものの、高市皇子に対しては「次はあんただからね」というポーズを取ったわけですね。
しかし、持統が10年粘った結果、高市皇子は持統より先に病死してしまいます。
そこで、持統は皇族を集めて、次の皇太子を誰にすべきかを問いかけました。
やっぱり長生きしないとダメだのぅ
この時、年長の他の天武の皇子のをのけて、持統の子である軽皇子を推したのが、
件の葛野王なのであります。
持統は大喜びで葛野王の意見を取り入れました。
高市皇子の没後半年で軽皇子は立太子、さらにその半年後には持統は軽皇子に譲位しました...
葛野王はおそらくこの功績によって式部卿に取り立てられることになります。
つまり、葛野王は持統に媚びることによって、なんとか朝廷内での生き残りに成功した、というわけですね。
てなわけで、その孫淡海三船の行動も、そういう血統を考慮して考える必要があるのではないかと思うわけです、ええ。
なるほろ
(おしまい)
なるほろ?
天智を紂王に喩える理由になってねーぞ!
つまり天智系嫡流なので天武系皇族に警戒され、よって持統一族の自己血統保持欲に媚びへつらうことによってしか生き残れなかった一族、というわけです。
なので持統に媚びなければいけないのに天武に媚びても違うような
持統のとーちゃん天智だし
当時の天皇が聖武天皇であると考えると、
持統にだけ配慮して天智を持ち上げると、つまり自分(彼は天智嫡流であることをお忘れなく)を持ち上げることになるので、危険なのです。
なので、
天武えらいっす。天智はだめだと思うけど、持統さんは特別です。
とかいうポーズが必要だったのではないかと。
なお持統は言うまでもなく「血統を保持」の意味なので
へへへ、みなさんはこちらのご血統ですよね^^ という媚が込められています。
たぶん。
なるほろ
持統の血統が途切れた後、光仁天皇の即位で天智男系が復活するわけですが、
光仁天皇は大友皇子の系統ではなくその弟の系統でした。
思うに、大友皇子系で朝廷内で生き残れたのは葛野王の系統くらいで、
持統の血統に媚び続けすぎたために逆に皇位を遠ざけることになったのではないですかねえ。
まぁそうなんでしょうねぇ
なお光仁天皇(即位前は白壁王)は当初は最も皇位に遠い皇族の一人と考えられていて(そりゃ天智系じゃあねえ)、
孝謙天皇の異母妹である井上内親王は、孝謙天皇に睨まれることを恐れて、あえて皇位争いに絡まない白壁王に嫁いだ、という説があります。
朝廷の権力争い怖いわー
さて、井上内親王は白壁王と結婚して他戸王という男の子を生みますが、
いざ称徳天皇(=孝謙天皇の重祚)が亡くなってみると、持統の血統でかつ皇族の男子というのは
なんとこの他戸王しかいないという状況だったのでした。
なので、他戸王の父である白壁王が急遽即位することとなったのであります。
いやー、世の中、何が起こるかわかりませんね。
なんで持統の血統はそんなに強かったのじゃ
藤原のご加護?
さあ...
藤原氏もいろいろ内紛してるのでわからんっすね。
なお、光仁天皇は即位後1年もすると皇后であった井上内親王および皇太子であった他戸親王をそれぞれ廃し、3年後には二人とも殺してしまうのであります。
やっぱあっちの系統に対しては恨みがあったんですねえ...
不改常典の今
なんで聖武天皇とかも不改常典使ってるんだろう
そういえば、不改常典って今も伝わってるの?
不改常典に拘るのは、簒奪者一族の引け目だからですかねえ。
万世一系! 正統! とかやたらと天武系で強調されたのはそういうことではないかと。
天武天皇は天智天皇の正統な後継者! みたいな。
でも天智に戻っても言及してる辺りがなぞなぞ
本当に正統だからじゃねw
まあ、天武系が言い続けたので定着した、ということかもしれない。
そういえば、不改常典は今も社長就任の際に踏襲され、
前社長がやれといった、わたしは恐れて前にも後ろにも進めなくなったががんばる的なものいいをする習慣ができた…とかいうデマを思いついた
不改常典 - Wikipedia
{znz_v} title bot:: 桓武天皇以降の即位詔
{unak} 不改常典はこの後しばらく言及されないが、
とか
微妙だな。
しばらくって天武系ですよね。
「天武系が言い続けたので定着した」説が怪しくなってしまう。
つっても、孝謙天皇の即位時にはあって、
まぁ、わたしが疑問に思っているのは、今上さんが知ってるのかどうかなのです。
桓武までの間には淡路廃帝と重祚と光仁天皇だからなあ。
重祚の際には不改常典についてはいちいち触れる必要ないよな。
先代に教えてもらえなかったんだろうか
いや、しかし光仁はなんで知ってるんだ
淡路廃帝や光仁天皇は先帝の子孫じゃないので、
なので言わなかったのではないかという気がする。
直系・嫡系皇位継承法説だな。
まぁそれっぽい感はある
まあ、桓武以降は実は全然伝わってない法を適当に想定して言ってるという説は
それはそれで正しいんじゃないかという気がする。
それはそれとして不改常典は不改なんだから今も有効なはずだが
大正以降の天皇は憲法と皇室典範に従って即位してますねえ。
明治になってから言及されていないようですが
明治天皇は言及したんですかね。
微妙に気になります。
あの内容が実は不改常典なんだろうか
女帝が即位できないので、不改常典よりは厳しい内容であることは間違いない。
http://ourei.fc2web.com/date/tyokugo/kaigen.html ほう
{znz_v} title bot: 改元の詔
ちょうどそれ見てた。
これと別に即位詔があるのかないのかが気になる。
明治天皇は即位改元とある
「朕皇祖皇宗ノ威靈ニ頼リ、大統ヲ承ケ萬機ヲ總ス。」とか即位っぽい
うーん
実はその10日ばかり前に御即位ノ宣命というのが出ていました。
ほう
切りどころわからないので大事なところを引用すると
{unak} 掛巻も畏き平安の宮に御宇しめす倭根子天皇か宣給ふ此天日嗣高御座の業を掛巻も畏き近江の大津の宮に御宇しろしめしし天皇の初給ひ定賜へる御代々々の御定有が上に方今天下の大政古へに復し賜ひて橿原の宮に御宇しろしめしし天皇の御創業の古に基き大御世を弥益々に吉き御代と固め成し賜はむ其大御位に即せ賜ひて進も不知に退も不知に恐み座さくと宣給ふ大命を衆聞食と宣給ふ
近江の大津の宮に御宇しろしめしし天皇 = 天智天皇
初給ひ定賜へる御代々々の御定 = 不改常典
おお
というわけで、明治天皇は不改常典によって即位していると。
進むことも引くこともできないけど命なのでやるぜともいってるな
うむ。
たぶん歴代の例文どおりなんでしょうね、これ。
橿原の宮に御宇しろしめしし天皇 = 神武天皇
なのはいいんだけど
平安の宮に御宇しめす倭根子天皇 って誰
先帝孝明のことかしら。
なんだろう
倭根子は天皇にかかるとあるので無意味だな
うん
平安京の天皇ってその頃全員だよ的な。
まあ、先代だろう。
先代から命じられた皇位継承を、天智天皇が定めた不改常典に従い、神武天皇の創業に基くよき御世を開くべくうんたらかんたら
かな。
そういえば他でも先代からってテンプレだったな
うーん
大正・昭和・平成の即位詔が見当たらない。
言及がないどころかそもそもないのだろうか
わかんないんだよねえ。
平成のなら探せば見つかりそうなものだが。
不改常典はもともと譲位のためのものじゃないかと言う指摘があった
うん。
まぁ、文面的に確かにそうだな
しかし、天武系の実際のややこしい継承時に言及されていない。
むしろそのようなときにこそ言及されるはずではないか
という反論がありますね。
うむ
即位後朝見の儀 平成元年1月9日
{unak} 大行天皇の崩御は,誠に哀痛の極みでありますが,日本国憲法及び皇室典範の定めるところにより,ここに,皇位を継承しました。
これくらいなのかなあ。
天皇皇后両陛下 - 宮内庁
しかし、天皇の諱をでかでかとのせるあたりなんというか時代なのだなぁ的な思いがある
まあね。
さっきの引用は http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h01e.html#D0109 より。
{znz_v} title bot: 主な式典におけるおことば(平成元年):天皇陛下のおことば - 宮内庁
{znz_v} title bot:: 即位後朝見の儀平成元年1月9日(月)(宮殿)
それは詔なのだろうか
即位礼正殿の儀 平成2年11月12日
{unak} さきに,日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが,ここに「即位礼正殿の儀」を行い,即位を内外に宣明いたします。
うーん
不改常典が改められたように聞こえる
登極令 - Wikisource
大正・昭和の両天皇はこれに沿って即位したはずである。
改元の詔書を出すこと、は書いてある。
それだけー
なんてこったいw
他に詔を出す気配はないんだよもん!
たしかにさっき改元の詔書はあったな
やっぱり改まった疑惑
こらー!>明治天皇
不改なのに変えるなよ!
やっぱり明治朝と称すべきだな
天皇制廃止論
こんな調子でなし崩しに女系継承も認められてしまうんですかねえ。
女系継承するくらいなら天皇制廃止しろ論者な俺
まったく近頃の若者は伝統を軽んじている
廃止してくれれば色々といやらしい文書が公開されるに違いない
陵墓が発掘できると大変な成果が得られるというのもあるな。
是非私が生きてる間に終わって欲しい
むりっぽい
少なくとも箸墓は掘りたい、というのは全ての考古学者の期待だよなあ。
何も入ってない気もするが。
ないことがわかることに意義があります。
1000年ほど前に盗掘されました^^ みたいな。
江戸時代とか経てるしなぁ
なお私は邪馬台国北九州説乗りなので、近年の纒向=邪馬台国説を吹っ飛ばすためにも是非掘ってほしい。
邪馬台国はどこにあった
そもそも、纒向が当時としては他と隔絶した規模の大都市であったということは、
それこそ纒向が邪馬台国ではなかったという証明になると思うんだがなあ。
倭国はずっと小国分立で統一勢力がなかったが、話し合いで卑弥呼を共立してようやく混乱が収まった。
ということは、邪馬台国は他を隔絶する規模の大国ではない。
また、なぜ分立していた小国が連合しないといけなかったかを考えると、
狗奴国との戦争が挙げられる。
ということは、分立していた小国が連合しないと対抗できないほど狗奴国は強大であったと考えられる。
故に、狗奴国は邪馬台国連合に対抗できる規模の大国あるいは大連合である。
とすると、北九州が邪馬台国連合、纒向が狗奴国と考えるのが自然ではないだろうか。
という説を世に訴えたいがめんどくさい。
奈良から魏に使い送るってのもちょっと遠いしなぁ
そもそも神武さんはよそから降り立っているので、
というのは関係なかった
纒向を邪馬台国にしちゃうと、じゃあ日本のおそらく西半分以上をまとめた超大連合に立ち向かう狗奴国ってなんなのよ、となってしまう。
邪馬台国の頃には出雲にも国があったはずだなぁ
東日本全部狗奴国なんじゃね(
考古学的に当時にそんな大勢力はない。
というのは、東日本はマジ過疎
うむ
東が過疎なのって気候的な理由とかってあるんでしたっけ?たまたま?
縄文時代は東の方が圧倒的に人口多いですよ。
つまり、稲作の普及が人口逆転の理由としか考えられません。
縄文時代の人口なんてどうやって調べるの?貝塚の数なんて数えても意味ないでしょ
その辺は考古学者に聞いてくださいw
あー、稲作ならしゃーねーな
この辺は、いわゆる「定説」
まぁ狩猟採集と稲作じゃ比べようもない
農耕すれば人口爆発するほど人生甘くなかったはずである
ていうか、稲作がチート
まあね。
近畿では3世紀の終わりになるまで鉄器がほぼ出ない。しかし3世紀の終わりになるといきなり大量出土して北九州を上回る。
なので、北九州の邪馬台国は畿内の狗奴国に破れて併合されたんじゃないですかね^^
ヤマトはどこから来たか
邪馬台国が鉄器をかかえて滅ぼして本拠地移動説
ていうか、神武さんはよその土地から乗り込んできたわけで、
ヤマトはもともとよそだったはずである。
神武さんは数人程度で出発してるので
そんな大規模移動したとは考えにくい。
事実上の初代天皇である崇神天皇の宮が磯城瑞籬宮とゆーところで、これは纒向のすぐ南。
筑紫の国宇佐でしばらくうろうろしている
やっぱスタート地点北九州とかその辺りだよなJK
時代も一致するので、崇神天皇が纒向一帯を拓いて国を建てたと考えて差し支えない。
そのご先祖様が九州からの流れ者というのは、まあそうなんじゃないかねえ。
嘘つく必然性もないしな。
ってーと、ヤマトは邪馬台国とも狗奴国とも違うって言う結論になるな
え
邪馬台国の人が狗奴国を征服して作った的な
狗奴国でいいぢゃん。
まぁそれでも。
普通はこの経緯だと「邪馬台国でいいぢゃん」って言いそうな気がするが
九州から先進技術を持って流れてきた一団が、橿原のあたりの小国を暴力団的に乗っ取って定着
まさに技術立国
その子孫が一大勢力を築き上げて、北九州に鉄を求めて殴りこみ。
慌てた北九州はなんとか連合作って対抗しつつ、中国に保護と権威を求めて遣使。
そこで中国様からはめでたく旗が一つ届きましたとさ^^
ストーリー的にはまあ特に大きな問題はなさそう。
あぁ、そういう時間軸か
崇神天皇を3世紀後半に置くのはかなり真っ当な推定のはずなので、
神武天皇は実在するならそれより前の人。
卑弥呼はそのもちょい前か
まぁ、すでにヤマトは起こっていた頃だな
卑弥呼は248年に死ぬので
ほぼ同時代人ですね。
皆既日食ですっけ
はい。
そういや古事記にも日食の記述あったっけ?
崇神天皇は258年没かなあ、と考えられている。
天岩戸じゃなくて戦闘中にってのがあったよーな
ちょっと思いつかない<日食
気のせいっぽいな
崇神天皇について、西国と激しく戦った、とかいう記事があればいいんだけど、
残念ながら四道将軍を派遣して四方を平定した、という程度なんだよなあ。
あとまあ、その後で、出雲服属のお話がありますが。
出雲ではたいそうやんちゃしたっぽいですが。
おそらく4世紀前半になるだろう景行天皇は自ら西征し、山口県で賊を誅殺。九州に上陸して大分県で土蜘蛛を誅殺。さらに宮崎に入って熊襲を平定。
まあ古事記にはないので嘘ですが^^
^^
しかしまあ、これが天皇自らじゃなくてヤマトタケルにやらせたとか部下にやらせたとかでもいいんだけど、
4世紀前半についに九州の実効支配が成立した、という話だとするならば、
この時についに邪馬台国連合の残滓が滅んだんじゃないですかねえ。
倭の五王はどっちじゃ
倭の五王はヤマトの大王でいいと思うよ。
定説どおり、武が雄略でいいんじゃないですかね。
homi
でと、筑後国山門郡という実に都合のいい地名がむかーしから九州にはあるので
あまり悩まずそのあたりが邪馬台国でいいと思うんだけどねえ。
http://digital.asahi.com/articles/SEB201111150016.html
{_ocha_} (AutoCheck): 朝日新聞デジタル:鉄を制するものは倭国を制す [AR]
{znz_v} title bot: 朝日新聞デジタル:鉄を制するものは倭国を制す
そして八幡製鉄所につながるのである。
学者さんたちの意見が理解できないのは記事のせいだろうか。
{unak} 「近畿と九州の仲が悪かったのなら、なぜ九州のものがあるのか。両者が敵対関係にあったかどうかを考え直してみる必要がある」
普通にあるだろ。
{unak} 他地域からの搬入品が多い纒向遺跡でも九州の土器はほんのわずかなのに、この現象をどう解釈したらよいのか。
日本史学者ってなんでバカなの
製鉄技術だけは九州からぱくってこないと手に入らなかった。
九州とは対立してるから九州の土器はほとんどないけど。
という、それ以外の解釈があるのかどうかと問いたい。
相手が鉄器で武装してたらこっちも鉄器がないと対抗困難なんだもん、そりゃ必死で技術を盗むよねえ。
鉄器対青銅器は一方的なはずだよね
あるいは、神武天皇が西から持ってきた技術こそが製鉄技術で、
これがあったから神武の子孫は大和で勢力を築けたのかもしれない。
こっちの方がまだ素直かな。
神武の同行者見直すか
神武の持っていたテクノロジー
宇佐が製鉄のメッカだったと思うんだけどまともな資料がぐぐりあてられない。
というわけで、神武一行が宇佐にしばらく滞在したのはそういうことだと考えるといいのではないか。
神武は熊野で困った
高倉下がフツノミタマをもらって、それを渡したら楽勝だった
軻遇突智とかその辺がようするに鉄だよなぁ
名刀ですか。
ちょ
あれですよ
AbsoluteVirtueの戦利品
最強NM!
g>フツノミタマ absolutevirtue
{znz_v} google web bot: 布都御魂/FF11用語辞典 - http://wiki.ffo.jp/html/3889.html (and 3 hits)
残念ながら両手刀w
今侍強いので大人気
あ、そうなんだ。
時代は移り変わるのう。
2009年くらいに両手武器強化パッチが入ったのさ
http://wiki.ffo.jp/html/14213.html
{znz_v} title bot: 両手武器強化祭り/FF11用語辞典
2007だった
しかしまあ、鉄製武器つええ、という説話なんすかねえ、これは。
なんじゃないかなぁ
しかし、その受容に際して相応の犠牲を払ったようにも聞こえる
ただこれ、自分らが持ち込んだものじゃなくて、現地の住人に貰ったんですよね。
そこがひっかかる
ストーリー的には残念。
でも元々は高天原の品ですよ
当時の鉄器は全部西から来てるからじゃないかな。
たぶん舶来品なんでしょう。
タケミカヅチさんって軻遇突智だから、イザナミの死の原因の神のパーツだし
これはまあ、現地の住人の中から武器持参で呼応するものが現れた、と見るのかなあ。
しかも渡来系なのかね
おそらく。
だとすると、神武の出立時は超ノープランだったんだろうか
ばかだな
馬鹿ですね。
まあ、そういうもんじゃね?
まぁね
「なんか夢見た! いっちょ旗揚げしてくる!」
こうだもん。
あいはぶあどりーむ!
まぁ、バカだけど夢と人望がある若者が世界を取るってのは普遍ではある
うむ。
ニギハヤヒ(物部氏の祖)が先に降臨して大和にいて、
長髄彦に擁立されていたけれど、結局神武に降るんだよね。
で、物部氏は武器製造・管理がお仕事。
もとから物部氏こそが持ってたんだろうか
難しいですねえ。
神武が信頼して預けたのか
ニギハヤヒは多分神武と同類なんだよね。
うむ。そこ嘘ついてもしょうがないし
西からの流れ者。
天火明命 - Wikipedia
火は扱っている。鉄を扱っているようには見えない
天孫ニニギの兄とか子とかか。
金山彦神 - Wikipedia
この辺かなあ。
でも神武に同行してないし
金屋子神 - Wikipedia
こっちの方が面白いかな。
最後のほう。
{unak} 金屋子神社より西方約40kmに石見銀山があり、当地に佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)があるが、この『佐毘売』は、金屋子神の別名ではないかと言われている。『さ』、『さひ』は鉄を意味していると推測されている[2]。
{unak} 尚、饒速日尊や物部氏と関係が深いとされる三瓶山は古来、佐比売山と呼ばれていた。また、三瓶山の西約5kmに、石見国一宮で、石上神宮と表裏一体であると言われる物部神社が鎮座する。
『金屋子神の生まれを問えば、元は葛城 安部が森』 ほう
ふふふ。
とりあえずニギハヤヒ・物部氏とはくっついた。
しかしなあ、これは出雲征服後に物部氏がその辺管轄したってだけかもしれんしなあ。
順序前後がよくわからない。
元々なのか後からなのかどっちかなぁ
ていうかもともと神武さんは高千穂か
神武が製鉄技術を大和に持ち込んだ、とかいうのはちょっと厳しそうだな。
もともと持っていたわけでは無い気がする
ヤマトに元からあったわけでも無い気がする
東征の途中でゲットしたのではあるまいか
知ってはいたんだろうけど、持ってこれるほどの財力とかもなかったんだろう。
「日向の高千穂で」というあたり、そもそもそういう機密にアクセスできたとは思えない
鉄に関係ありそうなの宇佐くらい。
宇佐でなんか友達作って、
その友達が後で鉄器持ってきてくれた
的な
うん。
「俺がビッグになったら来てくれよな」的な。
鉄器もらったら跡は楽勝でした的な流れに見える
八咫烏 - Wikipedia
宇佐神宮など、太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社
!
ほほう
繋がったか。
つまり太陽ってのは鉄か
光る鉄製武器
炉じゃない?
あー、そういうのもあるか。
日本書紀だとフツノミタマのくだりはなくて、
かわりに八咫烏がぴかーとひかってうわぁってなって勝利とある
とすると、フツノミタマ=八咫烏=鉄器かなぁと
まあ、宇佐から必要な武器が届いたという話なのかな、これは。
なんでしょうかね
タケミカヅチは... 鹿島神宮ねえ。
うーん
「常陸国一宮である鹿島神宮の門前町として栄えた。現在は神栖市とともに重要港湾である鹿島港を中心とした鹿島臨海工業地帯を形成し、住友金属工業の企業城下町として鉄鋼企業を中心に工業が盛んな都市である。」
というわけで、ここもやっぱり鉄じゃないっすかね
まあ、そうなんだけど。
なので、鉄→タケミカヅチっていう逆順だと思う
タケミカヅチ、別名豊布都神(トヨフツ)。
タケミカヅチ - Wikipedia
あんまり僕の信じてない関裕二によると、トヨというのは海神。
もともと高天原はフツで、同じ鉄だからタケミカヅチとフュージョンした、かなぁ
鉄の製作に水は使うが、どうかな
なんか飛躍がある気がするな
いやー
航海術と製鉄術がセットなんですよ。
まぁ元々海の向こうだしなぁ
宇佐神宮は海の神を本来は祭っているはずだけど、そのあたりは同時に製鉄の土地
とかね。
ほむ
鹿島神宮も船とありますな
ね。
ま、海を渡ってきた渡来人が製鉄技術をもたらして、
そして鉄の材料は当初は輸入するしかなかったということを考えると、
製鉄技術は航海技術がないと維持できなかったと考えてもいいかもしれない。
あぁ、材料輸入なのか
砂鉄から製鉄できるようになるまではねえ。
たたら製鉄はいつからじゃ
実は謎なのですw
弥生時代にはある所にはあったとあるな
鉄鉱石からの方が簡単で、
日本にはほとんど鉄鉱石がないので、
その辺が輸入品だったことはまず間違いない。
フツノミタマを分析かけたいな
http://www.eonet.ne.jp/~etizenkikou/etizensi2.html ふぅん
ああ、そうそう、越ねえ。
ヤマタノオロチはコシ(越)から来て、首から刀が出ましたね。
なるほど
すると逆にフツノミタマは越じゃ無い気がするな
そうね。
ところで、日本のコシじゃなくて中国にあった越の国ですが
優れた精銅技術で知られていました。
ほう
越の隣にあって激しく争いあった呉ですが、
日本は呉の太伯の子孫の国であるという説があります。
http://lunabura.exblog.jp/15054896/ ふむふむ
{znz_v} title bot: ひもろぎ逍遥 : 高句麗壁画(1)八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ
八咫烏といえばサッカーですねえw
八咫烏が選ばれた経緯については若干不明瞭な点があったと記憶している
しかし、ほう、八咫烏はやっぱり鉄なのか。
しかし高句麗か。
高句麗語と日本語が近いという説があるのはご存知ですよね^^
高句麗が鉄ってのはわりと普通に合った気がする
すると、倭が朝鮮半島奪還に執着してたのは百済じゃなくて高句麗だったのかな
百済も王族は高句麗と同根。
そうか
どっちも辿ると扶余になる。
百済の被支配民と新羅は別系統。
紛らわしいな。
扶余でぐぐると物部は扶余人とかでてくるな
高句麗=百済支配層(=日本も?)
すると物部は保有者か
百済支配層≠百済非支配層
百済支配層≠新羅
しかし、百済非支配層=新羅 かどうかは不明。
まあ、近いんだろうと思うが。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-2-4.htm
{znz_v} title bot: 物部氏は扶余人
どうでもいいけど、新羅の初期の王は倭人。
「物部氏は鹿をトーテムとする氏族」うーん
扶余系部族でも狛族(高句麗)のトーテムは「鳥」ふむ
ふーん
つまり、両方鉄だが別と。
藤原の力の源泉も鉄だったんだろうか
どうだろうねえ。
持統系の力の源泉も鉄を抑えていたかどうかではないかと飛躍している
製鉄の画期が6世紀初頭で、とかなんか。
8世紀頃はどうだろうね。
もう当たり前だったのかどうか。
それでも製鉄集団を抑えているかどうかって、今の軍部を抑えているかどうかレベルの力な気がする
まあ、それはそうだな。
三種の神器とは
三種の神器の剣も鏡も鉄のことだと思うんだけど、
勾玉はなんだろう
鏡は銅じゃないすか。
まぁそうか
八咫鏡
ううむ
八咫なんですよね。
ただ、単なる単位だからね。
まぁ、扶余族は銅もやってるので、とも思う
ようするに、三種の神器ってのはアイテムそのものではなくて、
アイテムに象徴される技術もしくは職能集団こそが神器なのではないかという
そうかもしれない。
そりゃもってりゃ王になれる。
すると、全て鉄か、重要なテクノロジ三種
八尺瓊勾玉はメノウ
瑪瑙だとあんまり重要だとは思えない
呪術かなぁ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%83%A4
{znz_v} title bot: 玉祖命 - Wikipedia
{_ocha_} (AutoCheck): 玉祖命 - Wikipedia [AR]
クォーツとかレンズとか言われると重要だが
...
火をおこすのに使う?
豊玉神
また「とよ」が来たよ。
まあそれはいいとして
聖火をともすのってレンズだっけ?
反射鏡
だよね
すると瑪瑙関係ないな
八尺瓊勾玉は璽とも言われるので、んー
まあ、珍宝なのかなあ。
剣璽という言葉があって、つまり天叢雲剣+八尺瓊勾玉のことなんだけど
つまり八咫鏡は少々扱いが違うことになる。
上なのか下なのかわからんが。
鏡はアマテラスの現し身なので、上なのかなぁ
「なお、三種の神器のうち神鏡は宮中三殿の賢所の神体であるため、この儀式では動かない」
ところで、この三点セット、
どうも北九州〜山口あたりにおける王権の象徴らしいんですよねー。
ほう
さっきの景行天皇の親征時に、山口で服属したなんとかっていう奴が剣・鏡・瓊を差し出している。
剣と地図とかありがちなきがするが
また、その後に仲哀天皇が神功皇后と親征した際にも、福岡の連中が同じセットを出している。
ただまあ、僕は仲哀天皇の親征ってのは、景行天皇の親征の話と本来セットなものが分割されただけのような気はしていますが、
まあ、それぞれ別々の地名を挙げてそういう服属時の三点セット献上の話があるのは、そういうことっすかね。
アマテラスの神体ってのはなんか後付けな気がするな
ヤマト王権に置いて三点セットが成立したのはどうも相当後らしくて
具体的には奈良時代w
どうもねえ、最初は璽だけだったようなんだよねえ。
まぁ中国がそうだしねぇ
勾玉はその名残なのかなぁ
まあ、よくわからない。
その名残にしてはまたとよがでてくるのが謎だが
まあ、少なくとも古事記にはニニギが高天原から3つ持ってきたとあるし
http://yatusiro.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-ba61.html ふむ
{znz_v} title bot: 577年の扶余「王興寺」にも「勾玉」が: 隼人研究室
それなりに大事なものという意識はあったんだろうけど...
http://blogs.yahoo.co.jp/miyamoto83885/16175592.html
{znz_v} title bot: 鉄の伝播経路(9) 出雲国の交易・(勾玉と鉄) - 上総歴史散歩・玉前神社の謎 - Yahoo!ブログ
「倭国が勾玉を朝鮮半島に輸出し、代わりに鉄の延べ板を輸入していたと考えられます」
つながった
お
原材料調達の手段か
これがないと鉄が手に入らないわけか。
つまり、三種の神器は全て鉄の象徴と。
鉄を持ってれば王権は手に入るに決まってるって意味な訳だ
ぱっとぐぐって三種の神器が三つとも鉄を意味してるって説は見かけないな
鏡が厳しいのだと思われる。
八咫烏と鉄ってのも難易度高いか